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36話 動く人形

Author: なつめ
last update publish date: 2026-08-27 11:43:50

 藤崎杏奈の電話は、それから何度かけてもつながらなかった。

 呼び出し音すら鳴らず、機械的な案内だけが同じ文句を繰り返す。

 蓮司は杏奈の現在住所と、先ほどまで通話が成立していた時刻を警察へ伝え、安否確認を依頼した。

 常世荘から数百キロ離れた町だと説明すると、管轄をまたいで確認することになると言われたが、蓮司は引かなかった。

「人形の話はしないの?」

 奈々香が低い声で訊いた。

 顔色はまだ悪く、押し入れの前へ落ちた赤い組紐の切れ端を避けるように壁際へ寄っている。

 蓮司は電話が切れる直前、玄関の中へ見覚えのない日本人形が現れたと杏奈本人が話していたことまで伝えたと答えた。

 信じるかどうかは警察の判断だが、安否確認に必要な情報は一つも省かないという。

 端末を置いた蓮司の手は、机へ触れる直前にわずかに力んでいた。

 妹の失踪を八年間追ってきた彼にとって、杏奈は初めて突き止めた生存者であり、しかも事件翌日の澄花を見た証人だった。

 その杏奈まで消えれば、また一つ澄花へつながる声が失われる。

 澪は彼の焦りを言葉ではなく、何度も通話履歴を確認する指先から感じ取った。

 昼を過ぎた常世荘二〇三号室には、朝よりも明るい光が入っていた。

 窓の外では洗濯物が揺れ、階下から掃除機の音が響いてくる。

 昨夜、押し入れから澪の枕元まで裸足の跡が続いていた部屋とは思えないほど、生活の音が近かった。

 それでも奥板を外したままの押し入れだけは光を吸い込む穴のように暗く、剥き出しの配管と断熱材が奥へ沈んでいる。

「杏奈さんが見た男も、こういうところにいたんだよね」

 美月が壁内部へ懐中電灯を向けると、朔は十二年前なら今より奥まで通れた可能性があると答えた。

 午前中に外したスピーカーと小型カメラは透明袋へ封じてあり、空洞に残しているのは自分たちが設置した監視用カメラだけだった。

 悠斗が昨日調べた時点では途中をコンクリート壁に塞がれていたと確認すると、蓮司は隣の二〇二号室側からも構造を測るべきだと立ち上がった。

 そのとき奈々香の息が止まり、全員が彼女の視線を追った。

 狭い台所には古い流し台と小さな冷蔵庫があり、壁際には使われていない木製の低い椅子が一脚置かれている。

 その椅子の上に、いつの間にか日本人形が座っていた。

 黒い髪、白い顔、古びた赤い着物、小さな両手を膝の上へ揃えた姿は、八年前に澄花が黒い布袋へ入れて七刻女学校へ持ち込んだ〈返し雛〉と同じだった。

「返し雛……」

 澪の喉から声が漏れ、奈々香が短い悲鳴を上げて美月の腕へぶつかった。

 悠斗は反射的に工具を握り、蓮司は人形と玄関を交互に見る。

 朔だけは距離を詰めず、胸元のカメラを人形へ向けたまま誰も触るなと制した。

 奈々香によれば朝は確実になく、十分ほど前に水を取りに台所へ入ったときにも椅子は空だった。

 朔は玄関と外廊下の監視映像をすぐに確認した。

 朝から今まで二〇三号室へ出入りしたのは、蓮司が一度二〇二号室へ戻ったときだけで、見知らぬ人物は映っていない。

 美月が二つの窓と浴室の小窓を確認すると、すべて施錠され、昨夜貼った開閉確認用の細いテープも切れていなかった。

 玄関のチェーンにも、外側から細工された痕跡はなかった。

「壁から入れた?」

 澪が押し入れを見ると、朔と蓮司は人形くらいなら通せる可能性を否定せず、すぐ壁内部へ入った。

 澪たちは人形を視界へ入れたまま待ち、数分後に戻った二人の袖や手袋には古い断熱材と灰色の埃が付着していた。

 空洞は途中で完全に塞がれ、二〇二号室との境より先はコンクリート壁で、人間はもちろん人形を通せる隙間もない。

 昨日から新しく削った痕跡も見つからなかった。

 蓮司は念のため二〇二号室へ回り、境界壁の裏側から同じ位置を測った。

 向こう側には収納も点検口もなく、壁紙と下地を壊さない限り内部へ触れられない。

 外廊下の映像も時刻を合わせて見直したが、人形が現れたと考えられる十分間に二〇三号室の窓へ近づいた者はいなかった。

 階下の住人が一度廊下へ出ただけで、その姿も階段を下りるまで途切れず記録されている。

「誰かが映像を止めて、その間に入った可能性は?」

 悠斗の問いに、朔は記録情報を開いた。

 映像は一秒ごとに連続し、保存時刻にも欠落がなく、七刻女学校で透の姿だけがノイズに隠れたときとは違っていた。

 美月は監視映像そのものまで偽装されているなら、この部屋だけ調べても証明できないと疲れた声で言った。

 そこで朔は、人形そのものを視界から外さない状態にして、六人の行動と複数の映像を同時に残す方法を提案した。

 誰かが人間の手で移動させるなら、その瞬間を六人の位置と二台以上のカメラで挟める。

 蓮司も同意し、異常を証明するためではなく、少なくとも人間が嘘をつける余地を減らすためだと補足した。

 澪はそのやり方に七刻女学校の夜を思い出した。

 あの場所でも朔は一つずつ仕掛けを見つけて恐怖へ名前を与えようとしたが、装置を止めたあとにも説明できないものが必ず残った。

 赤い着物の人形は、六人が話している間も一度も動かなかった。

 閉じた瞼、結ばれた小さな口、膝へ置かれた白い手は古い飾り物そのものに見える。

 だからこそ澪は、ほんの一瞬でも目を逸らした直後に位置が変わっているのではないかと考え、無意識に呼吸まで浅くしていた。

 返し雛が現れたこと以上に、その現れ方まで誰かが準備した実験の続きのように感じられることが怖かった。

「誰も台所をずっと見てたわけじゃない。注意を逸らして、その間に別の人間が置くことはできる」

 美月がそう言うと、悠斗は六人の中に置いた人間がいると言いたいのかと声を硬くした。

 美月は可能性を挙げただけだと返したが、奈々香は七刻女学校で繰り返した疑い合いへ戻ることを恐れるように「また始めるの」と呟いた。

 悠斗は長く息を吐き、車に積んでいた透明な収納ケースを持ってくると、動くというなら動けない状態にすると言った。

 朔に止められ、悠斗は厚手の手袋をつけたうえで人形の背後へ回った。

 顔を正面から覗き込まないよう胴を支えて持ち上げると、赤い着物の裾がわずかに揺れ、見た目より重いと悠斗が眉を寄せた。

 朔は内部へ何か仕込まれている可能性を考えたが、警察へ渡す前に壊すべきではないと判断した。

 透明ケースへ収める前に、人形の髪、着物の縫い目、左袖の小さな焦げ、帯のほつれ、首の後ろの黒い染みまで撮影し、八年前の映像と照合した。

 粗い映像でも左袖の焦げと帯のほつれは一致し、似た人形を新たに用意しただけではなく、同じ個体である可能性が高かった。

 美月が中身を調べれば何か分かるのではないかと訊いたが、朔は今ここで状態を変えたくないと首を振った。

 奈々香が「呪物だから壊せないって言わないんだ」と乾いた冗談を口にしたものの、誰も笑わなかった。

 人形はそのままケースへ収められ、四つの留め具を閉じたうえで、朔が蓋と本体を跨ぐように四方へテープを貼り、それぞれに時刻と印を書き込んだ。

 朔は三脚へ別のカメラを固定し、ケース全体と周囲の床が途切れず入るよう角度を調整した。

 もう一台は台所入口へ置き、二つの画角を重ねて死角を消す。

 全員が部屋から出れば、内部へ残った誰かが動かしたという説明もできない。

 六人は二〇三号室を出る前に、念のため記録条件を揃えることにした。

 蓮司はさらに、六人それぞれのスマートフォンを同じ時刻表示へ合わせ、誰がどこに立っているかを記録した。

 朔の二台のカメラだけに頼れば、また七刻女学校のように映像だけが違うと言われたとき検証できないため、美月と悠斗も別々の端末でケースを撮ることにする。

 奈々香は自分の端末に勝手な動画が保存されたことを思い出して嫌がったが、今回は端末を手に持たず、外廊下へ出る直前に机へ固定した。

 六台分の時計と位置を一枚の写真へ収めたあと、蓮司は最後に玄関を閉め、自分で鍵を回した。

 澪は外廊下へ出る直前まで人形を見ていた。

 閉じた目は何も見ていないはずなのに、白い顔を正面から捉えると、自分の視線だけが吸い寄せられていく感覚がある。

 八年前、澄花が黒い布袋の口を開いたときも、この人形の顔だけは妙に記憶へ残った。

 あの夜の澄花は怖がっていたのではなく、返すべきものを自分だけが知っているように人形を抱えていたのだと、今になって澪は思う。

 最初のメールには〈七つの場所から盗んだものを、七夜のうちに返してください〉と書かれていた。

 七刻女学校で戻した六つは、澪たちが持ち出したものだったが、返し雛だけは澄花がどこから持ってきたのか、誰も知らない。

 常世荘へ返せという指示だと思い込んだのは、写真に二〇三号室と人形が一緒に写っていたからにすぎなかった。

 もし写真そのものが「ここへ来い」という案内でしかなかったなら、人形を戻す場所は部屋のさらに奥にあるのかもしれない。

 その確認を終え、六人は二〇三号室を出て玄関を施錠し、外廊下から窓の封印も確かめた。

 待っている間、階下では子どもが走り、一階の住人が買い物袋を提げて帰ってくる。

 六人が二〇三号室の前へ立っているのを不審そうに見たが、声を掛けず自室へ入っていった。

 味噌汁らしい匂いが階段の下から上がり、近所のテレビの音まで薄く聞こえる日常の中で、澪だけは扉の向こうにいる人形の位置を頭の中で何度も確かめていた。

「十分」

 蓮司が告げ、悠斗が鍵を開けた。

 全員で台所へ向かう前に朔が録画を確認すると、開始から現在までケースは一度も動いておらず、人形も内部で姿勢を変えていない。

 四方のテープにも異常はなく、途中で映像が切れた時刻もなかった。

 奈々香が「じゃあ、いるんだよね」と恐る恐る台所を覗いた。

 透明ケースは同じ場所にあり、テープも四方とも貼られたままだった。

 だが、中は空だった。

 悠斗が駆け寄って留め具とテープを確認したが、開いた痕跡も貼り直した跡もなく、透明な底面には人形が座っていた痕さえない。

 美月が映像を訊くより早く、朔は液晶を見たまま「いる」と答えた。

 カメラの現在映像では、透明ケースの内部に返し雛が座っていた。

 録画を再生しているのではなく、今目の前にある台所を映している画面で、赤い着物の人形が閉じ込められている。

 ところが肉眼ではケースは空のままだった。

 朔がカメラを近づけても、液晶には人形が映り、画面から目を外した瞬間には空の箱だけがある。

「遅延じゃないよね」

 澪の声が掠れた。

 朔は時刻表示も入力信号も現在であり、遅延映像ではないと確認した。

 奈々香が後ずさり、美月はカメラと現実のケースを何度も見比べる。

 その美月の視線が和室へ流れた瞬間、彼女の顔から表情が消えた。

「澪」

 呼ばれた澪はゆっくり振り返った。

 自分の布団の上に、返し雛が座っている。

 枕を背にするように両手を膝へ揃え、台所で見たときとまったく同じ姿勢でこちらを向いていた。

 二〇三号室へ戻ってから六人は玄関と台所に固まっており、誰も和室へ入っていなかった。

 奈々香が震える手でスマートフォンを構え、朔が待てと言うより早くシャッターを切った。

 撮影直後、画面を見た奈々香の顔から血の気が引いた。

 写真には澪の布団が映っているのに、返し雛の姿はない。

 代わりに、紺色の制服を着た長い黒髪の少女が布団の上へ座り、右手首へ赤い組紐を巻いていた。

「澄花……?」

 澪は写真を拡大した。

 少女の顔は髪に隠れて判別できないが、右手には白い紙が握られている。

 美月が現実の布団を見ると、返し雛の手には何もない一方、そのすぐ脇へさっきまでなかった白い紙が落ちていた。

 朔は人形に触れないよう全員を制し、手袋をつけて紙だけを拾った。

 折り目も汚れもない紙には、鉛筆で一行だけ文字が書かれていた。

 少し右へ傾く筆跡、払いの癖、文字の間隔まで、音楽室の楽譜と理科準備室の壁に残されていた澄花の字と同じだった。

 澪はそこに書かれた〈返す場所は、ここじゃない。〉という一文を読んだ瞬間、胸の奥へ冷たいものが沈んでいくのを感じた。

 ここまで来ても、二〇三号室そのものが返し雛の目的地ではなかった。

 奈々香が「じゃあ、どこなの」と呟いたが、誰も答えられなかった。

 その瞬間、朔の手にあるカメラから小さな作動音が鳴り、六人の視線が液晶へ集まった。

 画面の中では、台所の透明ケースに返し雛がまだ座っている。

 現実では澪の布団にあるはずの人形が、映像の中でゆっくりと顔を上げ始めた。

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